ニーメラーさんの教訓

 有名なコピペの話。細かいバージョン違いがあるのかもしれないが、とりあえず以下の文章はwikipediaから抜粋した。

ナチ党が共産主義を攻撃したとき、私は自分が多少不安だったが、共産主義者でなかったから何もしなかった。
ついでナチ党は社会主義者を攻撃した。私は前よりも不安だったが、社会主義者ではなかったから何もしなかった。
ついで学校が、新聞が、ユダヤ人等々が攻撃された。私はずっと不安だったが、まだ何もしなかった。
ナチ党はついに教会を攻撃した。私は牧師だったから行動した―しかし、それは遅すぎた。

彼らが最初共産主義者を攻撃したとき - Wikipedia

 これ、最近だと表現規制の問題に絡めてよく見かけるのではないだろうか。「俺には関係ないし」という態度をdisる目的で紹介されることが多いかもしれない。

 という書き方をすると何か含むものがありそうだが、私はこの教訓(警句)そのものは傾聴する価値があると思っている。原文を書いたとされるニーメラーさん個人についてはぜんぜん知らないけど。

 私が釈然としないのはこの教訓の利用のされ方だ。上記のコピペを示しつつ熱心に表現規制反対の声を上げている人たちがいるようだけど、その人々の何割が高校無償化の朝鮮学校除外のときに同じ熱心さを発揮していたかなあ、と。

 上記コピペを使っているかどうかは別としても、表現規制問題に関してだけ熱心になっている人のほうが圧倒的に多いのではないだろうか。東京都の表現規制条例(案)に対しては多数の漫画家らが反対声明を発しているようだけど、その中に朝鮮学校無償化除外についてもコミットしていた人はどれだけいるだろう。

 おそらく日本人の多くには「私は朝鮮学校と関係ないし」「区別は当然」という思いがあるのだろう。それはそれで個人の自由ではある。しかし、そういう冷淡な態度でいた人が「自分の番」が見えてきてからニーメラーさんの言葉を持ち出すのはシュールすぎるような気がする。

 念のためだが、私は「表現規制に反対するなら朝鮮学校の無償化除外にも反対しろ」と言いたいわけではない。人が自分の興味や余力の範囲内で行動を起こすのは当然のことであるし、そこに「選択」があることも当然だ*1

 しかし、ニーメラーさんのコピペを貼るのであれば、「共産主義者」「社会主義者」「学校」「新聞」「ユダヤ人」に相当する人々がすでに存在していることにも思いを馳せてほしいなあ、とは思う。日本社会において人権を不当に抑圧されてきた(されている)人々は大勢いる。その事実に目を向けようともしない人間が得意げに例のコピペを掲げているのであれば、ニーメラーさんはギャフンと言うのではないだろうか。

*1:「選択」のしかたによっては「歪んだ党派性」とか言われたりするかもしれないけど。