表現規制と「戦略が悪い」

 私は表現の自由をできるかぎり尊重したい(そして尊重してもらいたい)立場の人間だ。しかし、なぜか今回の都条例改正案への反対運動にはあまり気持ちが乗らない。これは自分でも不思議なので、その理由を考えてみることにした。

  • 表現の自由がお上の恣意的な判断によって侵害されたケースはこれまで何度もあった。
  • それらのケースで声をあげたのはごく少数の人々であり、大多数の人々は消極的あるいは冷笑的に容認の姿勢を見せた。
  • その「大多数」(特に冷笑側)に属していた人々の一部が、今回になって表現の自由の大事さを大仰に訴えても白々しい。「戦略」としては協調するべきと思いつつも気分的に乗れない。

 と、だいたいこんな感じだろうか。あるいは、表現の自由ばかりを絶対視して、それによって侵害されてしまうものと真剣に向き合おうとしない一部の人にげんなり、という気持ちも少しあるかもしれない。

 嫌な仮定ではあるが、もし私が規制を進めたい側の人間だったら、間違いなくそこを攻めると思う。お前らが守りたいのは表現の自由じゃないだろ、今までに声をあげなかったのに今回になって急に慌てた「差分」は、要するにエロ漫画だろ、これだからオタクは信用できないし気持ち悪い……と。事実関係や価値判断を度外視して世論の誘導だけを目的とするのであれば、そういう「戦術」が最適ではないだろうか。

 まあ規制する側がそういうことを言い出したという話は聞かないけど、念のため対抗策は考えておいたほうがいいのではないかなあ、と他人事のように思う。「俺は違う」「そういう人もいるが一部だけ」「悪魔化だ」で根深い悪印象を拭えるかは微妙だ。このあたりは妖怪「戦略が悪い」として定評のある人に指南を請ったほうがいいかもしれない。

 実のところ私は、自分たちの「表現の自由」が制限される結果になっても、それはそれで構わないかも、と少しだけ思っている。そうでもしないと同じように権利を制限されてきた人々の気持ちを永遠に理解できない人もいるだろうから*1。どうせなら抑圧される側の人数が増えたほうが引っ繰り返すのも簡単になるはず、などと前向きに考えるのはどうだろう。

補足

 ちなみにエントリのタイトルだけど、「気分が乗らないからって非協力的になるのは戦略が悪い。そんなんだからダメ」とか言われるんだろうなあ、嫌だなあ、という意味。私が「戦略が悪い」と督戦しているわけではないので念のため。

*1:ニーメラーさんの教訓を反省や後悔のニュアンスで使っている人がほとんどいないと気づいたときは結構ショックだった。